「教養を身につけたい」と漠然と思ってる人は多いと思う。
しかし、今の時代が難しいのは、「そもそも教養って何?」を定義しづらいことだ。
今回は、そこんとこも含めて、「今の時代にふさわしい教養を身につけるためには何をすればいいのか?」を解説していこうと思う。
目次
何を教養とするかは地域や時代によって異なる
何が教養と見なされるかは、地域や時代によって変わる。
例えば、日本の平安時代においては、漢詩(中国の古典文芸)を上手に引用すると、教養があると見なされた。
19世紀、20世紀の欧州では、シェイクスピア(イギリスの古典)のセリフをサラッと引用できるのが教養人の特徴だった。
「教養」は、ちゃんとした出自のある人(しっかり勉強できるだけの余裕がある人)と、そうではない人を区別するために生み出された概念だ。
教養はある種のスクリーニングの機能を持っていて、教養のある人のコミュニティは、往々にして教養のない人を軽蔑したがる。だから教養はその成り立ちからして、けっこう意地悪なものだと考えることもできる。
教養のメリット
じゃあなんで「教養」という概念を人類が発展させてきたのかと言うと、「教養」をベースにしてコミュニケーションをとるためだ。
多くの場合、「教養」を身につけるためには、それなりの訓練が必要になる。バカなやつとか、一定の知的訓練に耐えられないやつをあらかじめ排除したほうが、コミュニケーションが円滑になり、高度な議論を展開していくことができる、というわけだ。
かつて「教養によってバカを排除する仕組み」がどう機能していたかは、今のインターネットを見れば実感しやすいのではないかと思う。
今のTwitterなどを見れば、前後の文脈などをまったく把握できないバカが、有名人に対して無限にクソリプを送りつけてるのが観測できる。
「教養」は、行き過ぎると良くないのだが、ある程度は「教養」といった概念が機能していたほうが、まっとうなコミュニケーションができる場になりやすい。
教養が崩壊している理由
しかし、現在は、「教養」とされるものは崩壊している。
なぜなら、「アクセスできる情報が増えすぎた」からだ。
過去よりも圧倒的に様々な情報にアクセスしやすくなり、それぞれの興味関心も細分化してしまったので、「これを覚えるのが教養!」といったものがどこにもなくなってしまった。
今の日本において、「これを知っていれば教養がある」とされるものは存在しない。
あらゆる情報が「コモディティ化(誰でもアクセスできるようになること)」されてしまったので、一定以上の集団における「教養」を定めることができなくなってしまったのだ。
間違った教養の使い方
今の時代に、知識ベースの教養をコミュニケーションの前提とすることは間違っている。
あなたが「これくらいは知っておくのは当然でしょ」と考えている「教養」は、他の人にとってはそうでない可能性が高い。
興味関心はすでに細分化してしまっていて、それぞれの分野における「常識的」な知識を学ぶだけでも、一人の人間の寿命ではとうてい不可能になってしまっている。
今は、「最低限これくらいは知っておかないと話にならない」という考え方ができない時代なのだ。
これをまず理解する必要がある。
よくネット記事で、「世界の教養人にとっての常識は○○」みたいなものを見かけるが、「特定の知識があればコミュニケーションが良くなる」という価値観を今の時代に持っている時点で、残念な人だと言わざるをえない。
「教養を前提としたコミュニケーションのために、教養を努力して身につける」こと自体が、現代においては徒労に終わることの多いものなのである。
今の時代、会話中にシェイクスピアなんて引用しても、首を傾げられるか、鼻で笑われるか、嫌われるだけだろう。
今の時代にふさわしい教養とは何か?
「教養でコミュニケーションがとれなくなった時代において、かつての教養にあたるものは何か?」という問いは難しい。
あくまで私見だが、現代人における教養は、「当事者性」だと俺は思う。
情報や手段が万人に共有されている状況下では、「やるかやらないか」が最も重要なファクターになるからだ。
「やってみた経験がある」というのが、これからのイケてるやつらのスタンダードになるだろう。
ネットで誰もが簡単に発言できるようになった世の中では、様々な怨嗟の声が溢れている。集団で言葉尻をとって、対象の人間を引きずり落とそうとするような振る舞いが、当たり前のように行われているし、集団心理によって大勢の人がそれをやることにためらいを覚えなくなった。
もともと教養とは、一定の基準を設けて、バカを排除するためのものだった。(あるいは、バカでも教養を身につけようとする過程で、それなりにまともなコミュニケーションをとれるようにするためのものだった。)
その点で言えば、「当事者になったことがある」ということが、今の時代において、もっとも重要な教養になるのかもしれない。
これからは、「やった人間同士でしか話が通じない」という世の中になっていくだろう。
今の時代における教養を身に着けたいなら「プログラミング」がおすすめ
「当事者になる」ためには、責任のある立場で働いてみたり、何らかの作品を作って発表してみる必要がある。
個人的に、手っ取り早いのは「プログラミング」だと思う。
プログラミングをやってみることは、「とにかく手を動かして形にする」というスキルを鍛えることに繋がる。
「過去の教養があるとされていた人」からすれば、「プログラミング」は、単なる「組み立て」や「手続き」にすぎない些末なものという印象かもしれない。
しかし現在は、それが逆転しているのだ。
「インプット」をたくさんこなしても、それを「アウトプット」したことがない人間は、「当事者」にはなれない。
ここ数十年は、座学が非常に重視されていたが、これからは、とにかく手を動かしてアウトプットすることが、一人前と見なされるための条件になっていくだろう。
テクノロジーが「やってみること」を教養の地位に押し上げる
良くも悪くも、「全員に手段が行き渡ってしまった」ということだ。
かつては、仕事の効率も非常に悪かったし、テクノロジーも発展していなかったので、「手段(仕事ができる場所)」を巡って、人々は競争した。そういう時代には、学歴などの資質が重要だった。
しかし今は、パソコンとインターネットさえあれば、「手段」を手に入れることは誰でもできる。
「手段」が特別なものではなくなったからこそ、それを活用して「とにかくやる!」ができる人が、重宝されるようになってくる。
現在は、誰もがSNSで口を出すことができる。しかし数十年前は、自分の意見をメディア(新聞などの媒体)に乗せて多くの人に届けるというのは、教養人の特権だった。その特権が撤廃された今、「口出し」はバカでもできる程度のものに成り下がってしまった。
一方で、小説、ブログ、イラスト、漫画、作曲、動画、アプリケーションなど、「何かを作った」という経験は、かつての「教養」のように、バカを排除して生産性のあるコミュニケーションをするために必須の資格となりつつあるのだ。
かつての教養と今日の教養は180度違っている
一次産業や二次産業がほとんどを占めていた時代は、貧乏人がアウトプット(肉体労働や作業労働)をして、教養のある上流階級がインプット(教養のためのお勉強)をしていた。
今日は、かつてとは真逆の状況になっていると言ってもいいだろう。
教育環境が整備され、インプット(義務教育や高等教育)は、ほとんど誰もが享受できるようになった。また、テクノロジーによって、表現の「手段」も行き渡った。「何かに口を出す」ことは、誰もがあまりに簡単にできることになってしまったので、特権性を失った。
だからこそ、かつての教養人にあたるポジションの現代版は、「アウトプットができる人」になるのだ。
実際に何かを苦しみながら作ってみないとわからないことはたくさんある。
あるいは、責任のある立場に立たされて、無理解な人たちの心ない罵倒を浴びて始めてわかることがある。
そのため、「当事者になった経験」が、現在における教養なのである。
教養が欲しいと思っているあなたは、古典文学を熟読するのではなく、まずは何かを作り始めなければならない。
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